人間は、そんなに単純じゃない(・∀・)

読書のきろく

こんばんは、あやです。

今日は、マルクス・アウレリウスの『自省録』を読んでいて、いろいろと考えた話(・∀・)

ちょっと説教くさいことを書いちゃって、少し恥ずかしいので、苦手な方は読まずに閉じてね(笑)


マルクス・アウレリウスは、古代ローマの皇帝です。

哲人皇帝なんて呼ばれている人ですが、『自省録』を読んでいると、なんというか、とても詩的で私的。

自分に言い聞かせるような文章がたくさん出てくる。


「他人の評価なんか気にするな」とか、「怒りに振り回されるな」とか。

いや、そんなに自分に言い聞かせなきゃいけないことがあるのか、と(笑)

ポエマーマルクス。

でも、これがなかなか面白い。

もともと完璧な人格者だったから哲学を実践していたのではなく、そういう人間になろうとして、コツコツと自分を律していた人なのかもしれない。

皇帝という立場にあって、強いリーダーであろうとした。そのためには何が必要なのかを考え、実践していた。

そう考えると、なんだか急に人間らしく見えてくる。

偉人というのは、どうしても最初から偉人だったような気がしてしまうけれど、実際には、私たちと同じように悩んだり、腹を立てたり、自分の未熟さにうんざりしたりしていたのかもしれない。

そういう人が書いた文章が、約1800年後の私の手元にある。

不思議な話だと思う。

偉大な人は、人格者でなければいけないのか

例えば、エジソン。

発明家としては偉大な人だけれど、意地悪だとか、金の亡者だとか、そういう話もある。

でも、だからといって発明家としての功績がなくなるわけではない。

逆に、どんなに素晴らしい人格者だったとしても、発明家としての功績がなければ、エジソンと同じ意味で歴史に名を残すことはなかっただろう。

人間として尊敬できるか。
仕事の成果に価値があるか。
歴史に残る功績があるか。

この三つは、必ずしも一致しないと思う。

それなのに、私を含め多くのひとは有名人や著名人に、つい完璧な姿を求めてしまう。

オリンピック選手なら、競技の実力だけでなく、人格も優れていてほしい。

テレビ番組の司会者なら、話が上手なだけでなく、知的であってほしい。

優しい人だと思っていたら、ほかの人にひどいことをする一面があった。

理性的な人だと思っていたら、驚くような行動を取った。

愛妻家だと思っていたら、浮気をしていた。

そんな話を聞くと、私は失望する。

もちろん、誰かを傷つける行為や、責任を問われるべき行為はある。何をしても許されるという話ではない。

ただ、その人の優れた部分を知っていたからといって、ほかの部分まで優れているとは限らないのだ。

逆に、つまらない大根役者だと思っていた人が、ものすごい人格者かもしれない。

仕事ができることと、人間として立派であることは別の話だ。

考えてみれば当たり前なのに、私はそれを忘れがちになる。

人間は球体に近い立体なのかもしれない

人間は、一面だけを持って生きているわけではない。

限りなく球体に近い、多面的な立体なのだと思う。

ある人から見れば優しい人でも、別の人から見れば冷たい人かもしれない。

家族の前の自分と、職場の自分と、一人でいるときの自分は、少しずつ違う。

誰かに見せている顔もあれば、誰にも見せていない顔もある。

どれか一つが本当の自分で、ほかは偽物なのだろうか。

きっと、そう単純な話ではない。

そのすべてが、その人を構成する一部なのだと思う。

私は、相手の一部分を見て、その人のことを理解したつもりになる。

テレビで見た姿。
本に書かれていた言葉。
インターネットで流れてきた情報。

それらを通して、その人のことを知った気になる。

でも、目の前にいたって、その人のすべてを理解することなんてできない。

自分自身のことだって、どこまで理解できているのかわからないのに。

それなのに、誰かの一面を知っただけで、その人のすべてを肯定したり、否定したりしてしまう。

人間は正しい人が好きだ。

憧れるし、尊敬するし、ときには崇拝する。

そして、自分が作り上げた理想の姿から外れた瞬間、失望する。

場合によっては、憎しみに変わる。

失望は、期待の裏返しなのだと思う。

誰かを好きになるということは、その人に何かを期待することでもある。

だから、誰かを好きになるということは、いつかその人を憎む可能性を抱えることでもあるのかもしれない。

もちろん、好きになること自体が悪いわけではない。

期待することも、憧れることも、自然なことだと思う。

ただ、自分が好きになった相手は、自分が思い描いたとおりの人間ではない。

そのことを、忘れないでいたい。

どんな人間にも、何かしら優れた部分があるのだろうか

ストーカー殺人のニュースを見ると、よくそんなことをするな、と思う。

執着して、相手のことを調べて、情報を集めて、計画を立てて、実行する。

もちろん、絶対にやってはいけないことだ。

ただ、その結果までに必要だった集中力や情報収集能力、計画性、行動力といったものを、別の方向に使うことはできなかったのだろうか、とも思う。

何かを調べる能力があるなら、その能力を仕事や研究に使えたかもしれない。

計画を立てて実行する力があるなら、何かを作り上げることもできたかもしれない。

もちろん、能力があることと、それを正しく使えることは別の話だけど…

どんなに能力があっても、自分の欲求を抑えられるとは限らない。

どんなに頭がよくても、他人の気持ちを尊重できるとは限らない。

そして、誰にでも必ず優れた能力があると断言できるわけでもない。

それでも、私は、人間を一つの側面だけで判断することには慎重でありたいと思う。

その人の中にあるものが、どのように使われるのか。

それによって、まったく違う結果になることがあるのだから。

人生の時間は限られている

ここまで書いて、ふと思う。

人間は、いつか死ぬ。当たり前のことだ。

誰もが知っているし、避けることもできない。

100年後には、今生きている人のほとんどが、もうこの世にはいないだろう。

私もいないと思う。

こういうことを書くと、ちょっと厨二病っぽくて恥ずかしいのだけれど(笑)。

でも、人生には限りがある。

そして、その限られた時間の中で、私たちは何かを選んで生きている。

何かを一生懸命やってきた人は、その人にしか得られなかったものを持っている。

オリンピック選手には、競技を極めた人にしか見えない景色があるだろう。

研究に人生を捧げた人には、研究を続けた人にしか得られない知識や経験がある。

仕事に打ち込んだ人も、家族との時間を大切にした人も、それぞれ違うものを得ている。

でも、何かに時間をかけたということは、その時間にできたはずの別のことを、経験しなかったということでもある。

競技を極めた人は、別の仕事を経験していないかもしれない。

仕事に打ち込んだ人は、家族と過ごす時間が少なかったかもしれない。

自由を大切にした人は、組織の中で出世する道を選ばなかったかもしれない。

何かを得るということは、別の何かを得られない可能性を引き受けることでもある。

もちろん、すべての人が同じ条件で人生を選べるわけではない。生まれ育った環境も、健康も、与えられる機会も違う。

それでも、一人の人間が使える時間には限りがある。

だからこそ、他人が自分とは違うものを選び、違う能力を身につけていたとしても、それだけで自分より優れているとは限らない。

反対に、自分が何かを身につけたからといって、別のものを選んだ人より優れているわけでもない。

ただ、違う時間の使い方をして、違う人生を生きてきたということだ。

批判する人も、批判される人も

私は、他人を批判すること自体が悪いとは思わない。

間違っていることは間違っていると言っていいし、人を傷つけた行為には責任を求めるべきだと思う。

ただ、批判する相手も、批判される相手も、同じ人間なのだということは忘れたくない。

相手にも人生があって、時間があって、何かを選び、何かを諦めてきた。

自分が知らない経験があり、自分が知らない一面がある。

だからといって、その人の行為を許さなければならないわけではない。

ただ、その人のすべてを、自分が見聞きした一つの出来事だけで理解したつもりにはならない。

そして、それは他人に対してだけではなく、自分自身に対しても同じなのだと思う。

誰かに批判されたとき、一つの失敗や欠点だけで、自分のすべてが決まるわけではない。

自分にもいろいろな面がある。

良いところもあれば、悪いところもある。

理性的に考えられるときもあれば、感情に振り回されるときもある。

そういう自分を認めながら、それでも、どういう人間でありたいかを考えていく。

マルクス・アウレリウスが『自省録』で繰り返し自分に言い聞かせていたのも、そういうことだったのかもしれない。

完璧な人間になることではなく、そうありたい自分に近づこうとすること。

そして、うまくできなかったら、また考え直すこと。

人間は多面的だと頭では理解していても、誰かに失望したときには、きっとまた忘れてしまう。

私だって、オリンピック選手に人格者であることを求めたり、有名人の発言に知性を求めたりする。

相手に勝手な理想を投影して、勝手に失望することだってあるだろう。

だから、これは他人に向けた教訓というより、自分自身に言い聞かせておきたいことなのだと思う。


人間は、そんなに単純じゃない。

他人のことも、自分のことも。

限られた時間の中で、何を大切にして、何を磨いて、どう生きていくのか。

その答えは、人によって違う。

だからこそ、誰かの人生を、自分の物差しだけで測らないようにしたい。

忘れてしまうこともあるだろうけれど、それでも、忘れないでいたいと思う。

そんなことを考えた夜でした。

またね!おやすみなさい。

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